旅と言葉〜はじめての投稿

 

1  はじめに

 

早期退職後、今しかないと思い切って飛び出した世界一周のひとり旅。日本を離れてもうすぐ半年になる。

アジア、中東、ヨーロッパと巡り、今は南米のアルゼンチン。

それまで短期間のいわゆる海外旅行しか経験がなく、英語はほぼ片言、その他の言語は挨拶だけという状態で、バックパッカー的な旅を続けてきたが、その中で言葉に関して感じたことがあるので書いてみる。

 

2  言葉に頼らない

 

言語そのもの以外によるコミュニケーション、言語に頼らないコミュニケーションが、実はとても大切なんだと思う。

 

心を開き、お互いに目を合わせ、コミュニケーションを取りたいという気持ちを込める。そうすれば、身振り手振りだけでもなんとかなる。そこに日本語での言葉を加えれば更によく伝わる。使い慣れた日本語だと、言葉に気持ちが乗りやすいのかもしれない。あるいは日本語の音自体に何らかの伝達力があるのかもしれないとすら感じることがあった。

 

逆に、意思疎通が難しいと感じるときもある。そういうときはたいてい、双方または一方が言語に頼っていて、言葉がわからなくても理解し合おうという気持ちに欠けている。単純に言うと、言葉がわからないと意思疎通できない、あるいは言葉がわからない相手とコミュニケーションをとるのは面倒だから避けたい、と思っている。そう思っている人は、目も合わせてくれない。こちらは邪険にされたと感じて嫌な気分になる。あまり言いたくはないが差別意識を感じることもあった。と同時に、僕たち日本人は、日本に来ている外国人に対して同じようなことをしていないかな、とも考えさせられた。

 

翻って考えると、言葉が通じる日本人同士でコミュニケーションをとるときも、同じようなことが言えると思う。むしろ言葉が通じるからこそ、言葉だけへの依存という罠にはまりやすいとも言える。

言葉の表面的な意味は理解し合っていても、本当に伝えたいことが伝わっていないと感じることがあるし、相手にそう感じさせたこともたくさんあったと思う。そもそも、同じ言葉でも、そこに込めた意味合いは人によってかなり違うのに、その違いに気づかないまま誤解を深めてしまうことだってよくある。

 

言葉だけに頼らず、目を合わせ、真意を理解し合いたいという気持ちを込めて話し、聞く。目を合わせるというのは、単に目を視覚的に見ているのではなくて、その奥にある何かを感じているということ。だから、言葉が通じなくても心を通わせることができる。視覚を使えない電話や、視覚も聴覚も使えないメッセージのやりとりだけでも、心を通わせることができる。そして、心が通ったときの歓びは、なにものにも代え難い。この視点から見ると、言葉は、表現の一つの手段に過ぎないとも言える。

 

3  言葉を使う

 

母国語を使ってコミュニケーションが取れるというのは、実はとてもありがたいことで、しかもコミュニケーションが豊かであればあるほど、人生も豊かになると思う。

 

先ほどの話と逆の視点になるが、言葉がうまく通じない外国にいて、たまに日本人とゆっくり話すと、慣れた母国語で会話できることが、実に心地よく、それ自体とても楽しい。

その有り難さを実感したときに、こんな素晴らしいことができるのに、黙ってるなんてもったいないぞ、表面的な会話で終わらせるのももったいないぞ、という想いが湧いてくる。

もっと深く会話しよう。もっと遠慮しないで素直にコミュニケーションを取ろう。僕たちには日本語という素晴らしい道具があるのに、フルに活用しないのはもったいない。そんな気持ちになる。

日本語がいかに豊かな言語であるか、専門的なことは知らないが、視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚、その他さまざまな感覚や感情、概念などを繊細に表現できる、素晴らしい力を持っていると思う。

そう考えると、日本語の言葉を大切にしたくなるし、日本語での表現やコミュニケーションをもっとたくさんしたくなる。

言葉をフルに使って表現し、コミュニケーションをとることそれ自体が、そこに関わる人の人生を豊かにしてくれるように感じる。この視点から見ると、言葉そのものが人生の大切な一部である。

 

4  おわりに

 

旅に出る前から、旅のブログを書こうと思っていたが、なかなか書き始めることができなかった。旅をすることだけで忙しかったし、日々の旅情報を発信することには今ひとつモチベーションが湧かなかった。下手なものを書くのが恥ずかしいという思いもあった。でも、今ようやく、こんな形で浮かんだテーマについて書き残したいと思うようになった。何かの役に立つかどうか、誰がどう思うかとは関係なく、ある種のコミュニケーション、表現の一つとして、旅の中で感じたことを、どんな形でもいいから日本語で書いてみたくなった。最近、旅の途中で読んだ「星の巡礼(パウロ・コエーリョ作、山川紘矢・山川亜希子訳)」の中に、"誰かがすでに、自分よりも優れた仕事をしたのではないかと恐れて、ペンや絵筆、楽器、道具を手にとることを怖がっている者、そして自らを芸術の館に入る価値がないと感じている者を憐れみ給え。"という祈りの言葉が出てくる。これは心に響いた。

 

というわけで、唐突ではあるが、ブログを書き始めた。はじめてのことで不慣れだし、どれだけ続くかもわからないが、完璧さは求めない。書きたいときに書きたいことを、心のままに書けたらいいなと思っている。

 

f:id:tabisora:20180221094040j:image