■
旅で変化したこと〜自己肯定感
世界一周の旅のブログを書こうとして長らく書けていなかったけれど、今年の6月下旬に帰国して日本国内の旅をしていて、今月つまり10月末から、まずはネパール、インド方面へ出かけることにしたので、今の内に、この世界一周の旅の感覚を少しずつでも書き残しておくことにしたよ。
この間、旅の写真報告会みたいなイベントを何度かやらせてもらって、そこで質問に答えて言葉になってきたことがいくつかあるから、そのあたりをここでもシェアしようと思うよ。
早速本題だけど、世界一周の旅をして何か変わったかと聞かれることが時々あって
考えてみればいろいろ変化してるけれど
一つ大きいのは自己肯定感かな。
旅立つ前もそれなりに自己肯定的になっていると思っていたけど
一周してきてみたらかなり変わっていた。
たとえ周りにどんな波紋を呼ぼうとも
自分は自分として存在していいのだという
落ち着きや安らぎに似た感覚
さらに言えば
それがどのような評価を受けるものであれ
自分らしく存在することこそが
この世に生きている意味なのだという
自分や世界への大きな信頼のような感覚
それが理屈を超えた実感として自然に根付きはじめていた。
かつての生きずらさの根底には自己肯定感の欠如があって
自己肯定感を得ようとしてもがいても堂々巡りだったけど
旅がいつの間にか変えてくれた気がする。
もちろんまだまだだなあと思うし
この状態も変化し続ける過程の一部なんだろうけど
この変化の持つ意味は大きいよね。
どうしてそうなったのかな?
頭で考えても後付けの理屈になってしまう気がするけど
思いつくまま羅列してみると
今までの常識が通じない様々な異文化の中に身を置くことで
常識がその場その時その集団の作り物にすぎないことを実感し
世界中の大自然の中に身を置いてそのエネルギーを全身全霊で受け
何者でもない素の自分を多くの人々に受け入れてもらい
運命に導かれて素晴らしい人生を送っている人たちに出会い
行き当たりばったりの長旅に身を委ね
未来を安心安全に整えておかなくてもなんとかなるし
思った通りにならない時にこそ深い気づきや大きな感謝がやってくると実感し
どこへ行っても生きていけるんだなと感じると同時に
今日一日生きていられたことに感謝する感覚を実感し
ことあるごとに自分の心の反応を観察して
無意識のクセや思い込みに一つずつ気づいていき
全てはある意味どうでもいいのだという実感を深めた
などということが浮かんでくる。きっと他にもあるね。
言葉にするとありふれた感じだけれど
経験によって深く実感することと
それが繰り返されることがポイントな気がするよ。
身体で覚えるという、スポーツや音楽の世界の話と似ているね。
旅だからこそ、感じること、気づくことに集中しやすかったと思う。
特に、今回の旅はまっさらな気持ちでただ感じることを大切にしたからね。
ほんとは日常生活の中でも同じようなチャンスが日々訪れているけど、時間に追われたり、仕事や人混みに疲弊したり、不安、欲望、競争などに心を奪われたりして、感じたり気づいたりするゆとりが持ちにくくなっているんじゃないかな。
特に自己肯定感が低い人ほど、それを埋め合わせるかのように目に見える形あるものごとに邁進する傾向がある気がする。自分の存在価値を求めて、あるいは価値がなくなることを怖れて。自分がそうだった。
それは自己犠牲の上に成り立つ利他的行為だったり、求められる期待に完璧に応えることだったりするし、時には競争に勝ち、地位や名声や富を得たりもして社会的に評価されるわけだけれど、それが砂上の楼閣であることはわかっていて、その人の内側の幸福度とは必ずしも比例しないよね。
それが間違っているとか、何が正しいとかいうことはないと心から思っているけれど、もし本人が他の選択も可能であることに目をつぶったまま苦しんでいたり、そのせいで心を病んだり、自ら死を選んだりするのであれば、とてももったいないなと思う。
旅のシェアのつもりがちょっと脱線したね。
旅のおかげで気づいたことや変化したことについて、続きはまたの機会に。
写真の1枚目はラオスのメコン川越しに沈む夕陽、2枚目はカンボジアのサンボー・プレイ・クックという遺跡の近くの村で見た朝陽、3枚目はアンコールワットの夜明け。