旅の中で感じたこと〜人は鏡とか

もうすぐ、また旅に出るから、その前に、世界一周の旅の中で感じたこと、浮かんだことについて、その時どきにメモしたものの一部をほぼそのままコピペしてみる。深く考えたわけではない素朴な感覚に過ぎないんだけど、まあ、あえてそのままで

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先進国に入ると、牙を抜かれた感じ。綺麗に整備されて便利になるほど、本来の生命力が削がれる感じ。

先進国の都会にいると、人がオープンでいられない感じ。人と出会っても挨拶もせずに通り過ぎる。人の存在を無視ないし迷惑がる。金を使わせようとするコマーシャリズムが溢れすぎてる。そこにどっぷり浸かってる。心もオープンでいにくい。

日本の接客素晴らしいんだけど、形にこだわりすぎてないか?礼儀にこだわりすぎてないか?そのせいでその人のハートが隠れてないか?人に対してビビりすぎてないか?

都会の日本人、もっとみんなと気楽に挨拶した方がいいと思う。なんかプライド、人との比較、他人の目線に意識をフォーカスしてる感じが、こちらにも同じ意識を呼び起こさせる。ガラスのプライドが傷つくのを怖がってる感じ。

都会の日本人、オープンじゃない気がする。おとなしい。全体として人に気を使ってるんだけど、個人対個人としてコミニュケーションしてない感じ。もっとゆったりオープンになった方が楽しい。せかせかしてたり、軋轢や波風を怖れていたり。むしろ多くの人がそういう感覚を持っていることを前提に、その感覚を尊重して、あえて踏み込まないことがマナーみたいになってる感じ。都会だからかな。思いやりとか奥ゆかしさという伝統もあるからかな。バランスの問題だと思うけど。

何かをして起きるトラブルは全てギフト。面白い!と思えば良い。嫌な思いをすることを避けまくる生き方は終わりでいい。出会いを待っている人もいればそうでない人もいるし、タイミングというものもある。人との関係や物事がうまくいかないからといって傷つくことはない。それよりもオープンでいられない心持ちがあるときに、気分を変えてアロハな気持ちになったほうがハッピー。

 

”人は鏡”というのは、人にはいろんな面があって、他人のある面に触れると自分の同じ面が反応すること。それは当たり前のことで、一喜一憂するほどではない。ただ、そういう意識で気づいて行くと自分を客観的に見ることができるし、その他人に対するネガティブな感情も客観視できて、むしろ優しい気持ちになる。他人にも、自分にも。
 
誰かが効率よく作った人口の道、とりわけコンクリートの道とか階段とか、とても疲れる。自然に近い道なら好きな一歩で歩けるし、変化に富んでるから飽きない。人生の道と同じだな。

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見ろ!どうだ!すごいだろ!という自己顕示万歳の国民性が目立つ国もある。違和感なく受け止められる”表現”とどう違うのかな?表現は他人に褒めてもらうためにするんじゃないし、お金のためにやるんでもない、むしろ無我から湧き出るもの。そしてそれが誰かの幸せに繋がるかもしれないという、一つの愛の形。自己顕示は他人に評価されるため、認めてもらうため。意識が自分に向いている。他人との比較が入る。だから、すごいでしょ、というコントロールありの波動で迫って来る人と会うと、その比較の世界に巻き込まれて、自分はダメだなとか、自分だってすごいんだぞとか、反応してしまいがち。◯◯を持ってない奴はダメだよねっていう人と関わるときとか。その人は自分は持ってるからすごいという優越感、あるいは持ってないからダメだという劣等感で来る。人を序列化する事で安心感を得ようとするんだな。巻き込まれるのは、自分の中にも同じ価値観が潜んでいるからで、相手にダメな奴と思われるのが恥ずかしいとか反応してしまうんだな。それがあるのは仕方ないけど、それに気づいていくことだな。その他人のことは気にしなくていい。だって、その種のエゴを原動力に努力するのも人間だし、今の社会はそれを基本に営まれていることも否定できない。
そもそもすごいんだぞ、と見せて優れた遺伝子があると分からせて異性をゲットするのは本能だもんな。だから、どれだけそれを前面に押し出すか、どういう場面でそうするかのバランスの問題だし、どこに自分の価値観を置くかの違いにすぎないかもな。自分軸なんだな、ここでも。あるがままの自分でいいんだけど、そのあるがままってのが、デコボコなわけで、そこにハマるのもデコボコな相手。都合よくは行かないよな。いろんなことに気づいてフラットになって行くことだな。
それにしても、自分のエゴは弱いなんて大きな勘違いだったな。その無自覚さが自分と周りに違和感を生み出す。どうだ!があるのに、無意識のうちにあたかもそれがないかのように振る舞うのは不自然。そこに気づきながら、自由に選択していけばいい。
地球にいいことをしようという発想の中にも、それによってその価値観を共有する社会に受け入れられたい、すごいと思われたい、とかいうエゴが入り込んでることがあるんだよね。人の助けになろうとかも同じ。それ抜きで、ただ愛でやることなら、ピュアだけどね。それが分かった上で、あえてエゴも受け入れて、あるいはエゴではないところから、選ぶならそれもありだね。エゴと一言で言っても、いろんな意味合いがあるし、オールオアナッシングではないから、完璧を求める必要はないけどね。
人間、無自覚に、”自分は正しいんだ、そっちは間違っているんだ、だからこの戦いは正当なんだ、だからこのくらいのことはしてもいいんだ”、みたいなことをやりがちだな。

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何事につけても、整えなきゃっていう強迫観念みたいなものがあったな。整ってなくてもよくって、大体は大丈夫だし、大丈夫じゃなくてもいいんだ。
 
この投稿も、整っていないね😁

長くなりすぎるから、今回はここまで

写真は、ワイキキビーチ、マウイ島の夕焼け、マウイ島の大木